Mert kellett írni valamit, mert tényleg furcsa, és mert nagy nehezen kevés híján ezer karakter.
この宿題について一番問題になることは作文を書くことではなかった。それどころか、課題を決まることであった。長い間迷っていろいろな課題も考えたが、最終に日本の救急車のスピード、夜間に道の暗さや納豆のような変な食べ物よりも日本語の状態について書こうとした。その理由は、日本語を勉強している一年間以上で、日常生活で使われているカタカナ外来語の多数量が何度もびっくりさせたのである。
どんな言語であっても、隣の諸言語の影響を受けるつもりである。母国のハンガリーの国語のハンガリー語の場合は、隣のスラブ諸語や、西欧強国のどいつ、フランスなどの影響は明白である。しかし日本語の場合外来語の割合はハンガリーごと比べた何倍も越える。日本国の千年以上の歴史の間中国語からとった何千の漢字の熟語もあるし、現在もグローバル化により数多くの外国語からいろいろな言葉が日本語に入ってくる。
日本語を勉強する時は、この様なカタカナ言葉の方が漢字の言葉よりずっと難しいである。なぜかというと、漢字そのもの意味があるから、書き方は覚えにくいが、一回勉強したらその漢字の言葉は意味が大体わかるようになるが、カタカナ語の方は元の意味も、発音も大分変わるので、元言語をわかったらも、その言葉を全然わからないことも多い。また、漢字と異なり、一つのカタカナ言葉を習っても、元言語の似ている意味の他の言葉は日本語に入ったらまた全然違う意味を表すようになることもある。
しかし一番びっくりさせるのは、外来語の数または変化ではなく、それより日本人の外来語に対した態度である。ハンガリー語にも、外来語が多くあるが、ちょっとだけ母語のことを考える人々はほとんどできるだけ外来語よりハンガリー語の言葉を使う。日本の場合は、言語のことがよく話題になるが、外来語のところで日本語の言葉を使うのはなんとか珍しいと思う。どうしてほとんどの日本人も、日本語を教える教師も同様に、日本語のことを守るために努めないだろうかとよく考えている。
外来語はどの言語にとっても重要であるが、多すぎたらその言語はどんどん外来語ばかり使ってなくなる恐れがある。母語を、母語の独自性を守るためにどの国の人にとっても大切にされなければならないと思う。